百人一首ゆかりの地めぐりシリーズ②
今回の記事では、大阪府高槻市にある能因法師ゆかりの地をご紹介したいと思います。
嵐吹く 三室の山の もみぢ葉は 龍田の川の 錦なりけり
伊勢姫が晩年を過ごした古曽部。(伊勢寺の記事はこちら)
能因法師は伊勢姫を慕ってこの地に居を構えたそうです。
百人一首に撰ばれた二人の歌人が暮らした、大阪府は高槻市にある古曽部という地域に行ってきました。
阪急高槻市駅から能因塚へ
JR高槻駅からの方が近いのですが、この日はJRが遅延していたため阪急を利用しました。
阪急高槻市駅からは徒歩で約20分。
伊勢寺より少し手前なので、時間があれば能因塚など能因法師ゆかりの地を巡ってから伊勢寺に向かうと良いかもしれません。
阪急高槻市駅1番出口から
能因塚(伝能因法師墳)
封土とは・・・古墳などの盛り土のこと。(https://kotobank.jp/word/%E5%B0%81%E5%9C%9F-132350)
文塚
不老水
花ノ井
能因法師について
旅の歌人として有名な能因法師(たちばなのながやす)俗名:橘永愷は、永延2(988)年、この世に生を受けます。
能因塚にある看板や高槻市のホームページには、長門守橘元愷(ながとのかみたちばなのもとやす)を父としていますが、
諸説あるようです。
川村晃生氏著の「初期能印伝をめぐって」という文献では、その諸説について記載されています。
①永愷は忠望の子。
清水文雄氏著「能因法師伝」
②兄元愷の養子となる
①付系図類、歌仙伝ともに、忠望は祖父。
犬養廉氏著「能因法師研究」
②『歌仙伝』の「為憧男、実弟」の記事中、弟は甥の誤りか。
③白永憧(能因)の文章生時代の肥後進士の称号は、寛弘二年( 一00五)の為慢の肥後守任官に関るものか。
④同年七月八日、為慢は国司在任中殺害せられ(小右記、御堂関白記)、これによって為慢は系図類からその名が抹消されたか。
1000年以上も前のことなので、わからないこともたくさんあるのですね。
そんな神秘性がますます想像を膨らませてくれます。
さいごに
今回の記事では、「能因法師ゆかりの地」をご紹介しました。
古曽部には伊勢姫ゆかりの地「伊勢寺」も近くにあるので、合わせて行ってみてくださいね。
それでは、最後までお読みいただきありがとうございました。